AIによる“幻覚”とは何か

近年、法廷で驚くべき現象が起きている。弁護士や専門家が提出した訴訟書類に、「存在しない判例」が引用されていたというものだ。これらは、AI(特に生成型言語モデル)が“幻覚(hallucination)”を起こし、まるで本当にあるかのように偽情報を生成してしまったケースである。
だが、なぜ法曹界でこのような事態が頻発するのか? 本稿では、Stanford の分析を手がかりに、AI生成書類の危険性、その構造的背景、そして法制度としての対応策を解き明かす。

第1章 背景・問題提起:なぜ「AI汚染」提出書類が問題視されるのか

  1. AIによる“幻覚”とは何か
  2. 法曹界で相次ぐ偽判例事件の発端
  3. 被害者は誰か? クライアント・裁判所・司法制度への打撃

1.1 AIによる“幻覚(Hallucination)”とは何か

生成型AI(例:GPT 系モデル)は、入力をもとに最も可能性の高い出力を生成する性質を持つが、必ずしも 正確な事実 を返すわけではない。特に法学領域では、モデルが「もっともらしく見える判例や条文」を“創作”して提供することが知られており、これを「幻覚」と呼ぶ。

こうした幻覚は、通常のテキスト生成では無害な場合も多いが、法律文書や証拠作成の場では重大なリスクを伴う。

1.2 法曹界で相次ぐ偽判例事件の発端

Stanford のブログ記事によれば、実際に法廷で提出された書類の中に、AIが生成した偽判例が含まれていた例が複数報告されている。
手元の論文調査では、OpenAI の GPT-4、Lexis+ AI、Westlaw の AI 機能、Ask Practical Law AI など、複数の有名法務ツールにおいて高い幻覚率が検出されたという。
また、過去には AI を活用した専門家証言すら、偽引用を含んだとして裁判所に排除された例も(後述)ある。

1.3 被害者は誰か? クライアント・裁判所・司法制度への打撃

  • 依頼者(クライアント):誤った情報に基づく主張が裁判で却下される、訴訟戦略が破綻するリスク
  • 裁判所:存在しない判例に基づいて判断を下す可能性、信頼性低下
  • 法曹界全体/制度:プロフェッショナル倫理の信頼失墜、AIの過信・誤用への批判強化

こうしたリスクが潜むにもかかわらず、AI利用の波は止まらない。問題点を理解するには、その“発生メカニズム”を知る必要がある。


第2章 メカニズム・理論:なぜAIは偽判例を“創る”のか

  1. モデルの訓練と確率的生成の限界
  2. 法学情報との断絶・知識保持不全
  3. 「ツール誤信(tool misbelief)」と専門家の過信

2.1 モデルの訓練と確率的生成の限界

生成型AIは、大量のテキストをもとに「次に来そうな語句・構文」を確率的に生成する。だが、その確率分布から外れるが正しい事実であっても選ばれにくい。逆に、「もっともらしさ(plausibility)」の高いが虚偽の文献が生成されてしまうことがある。

法学領域では「存在しない判例」「誤った条文番号」「不正確な引用」が、こうした生成プロセスによって生じやすい特徴を持つ。

2.2 法学情報との断絶・知識保持不全

AIモデルは “逐次記憶” を持たず、外部の法学データベースとリアルタイム連携しているわけではない。
特に、新しい判例や地域別判例、専門分野判例などは訓練データに含まれないことも多く、モデルが正確性を維持するのが困難だ。

さらに、モデルは “確信度” を明示的に示さない。つまり、出力がどれだけ信用できるかについて、ユーザーは判断しづらい。

2.3 「ツール誤信」と専門家の過信

法律の専門家であっても、AIを「超高速で高度なリサーチをする道具」と見なして過信し、出力を無批判に鵜呑みにする傾向が一部にある。
Stanford のブログでは、AIツールが “幻覚なし” を謳っていた事例をあげながら、その信頼性には疑問があると指摘している。
実際には、AIツールの幻覚率(法学クエリにおける偽情報生成頻度)は、58~82%という報告もある。

つまり、AIの出力を “補助” として使うならともかく、最終判断を任せるのは極めて危険である。


第3章 応用・実例・制度的対策:現場で何が起きているか

  1. 有名事例:Stanford 教授の専門家証言の排除
  2. 弁護士の制裁事例と罰則
  3. ルール11(Rule 11)と立法・裁判所の対応
  4. 司法制度としての「立ち入り命令・開示義務」案

3.1 有名事例:Stanford 教授の専門家証言の排除

Stanford の通信学者 Jeffrey T. Hancock は、ミネソタ州の “偽造ディープフェイクに関する法” を巡る訴訟で、ChatGPT による引用を使って証言書類を準備したが、その中に存在しない論文引用が含まれていた。裁判所はこれを受理せず、証言を排除した。
この事例は、AIを専門として研究・批判していた人物自身が、AI生成誤情報の犠牲になった典型例として注目された。

3.2 弁護士の制裁事例と罰則

・テキサス州で、AI生成の偽判例を用いた弁護士に 2,000ドルの罰金と AI 利用講習命令が下された事例。
・ネバダ州では、14 件もの偽引用を認定され、罰金だけでなく事案からの排除・倫理通報等も命じられた判決も報じられている。
・司法長官事務所に雇われた高額報酬専門家でも、ChatGPT を使って偽論文を引用し、信頼性を破壊された例もある。

これらは、“AI 出力だから許される” という動機や思い込みに裁判所が NO を突き付けた事例群である。

3.3 ルール11(Rule 11)と立法・裁判所の対応

アメリカ連邦訴訟手続規則(Federal Rule of Civil Procedure Rule 11)は、虚偽主張や不正確な法的主張に対して制裁を科す制度であるが、AI生成誤情報に対しては機能不全であるとの指摘がある。
スタンフォードの論文 “Rule 11 Is No Match for Generative AI” によれば、Rule 11 の適用範囲制限、安全港規定(safe harbor)などが、AI過誤を制裁するには不十分とされる。
そのため、一部の裁判所は “standing orders(運用命令)” を出し、訴訟提出書類に AI 使用の開示・チェック義務を課す動きを見せている。

3.4 司法制度としての「立ち入り命令・開示義務」案

将来的な対応案として、以下が考えられる:

  • AI 使用開示義務:提出書類に AI 使用の旨を明示
  • 検証責任の明文化:AI出力は必ず従来手法で検証
  • 外部監査・訂正命令:裁判所が出力源・検証履歴を確認可能とする
  • 処罰強化:過失・故意に応じた罰金・除名・倫理処分

日本はまだこうした制度整備が遅れており、米国や他国の動向を参考にすべきである。


第4章 今後の展望・議論:AIと法制度はどう共棲すべきか

  1. AIの信頼性改善と法的保証
  2. モデル設計者・ツール開発者の責任と説明責任
  3. 日本における制度設計の提案
  4. 読者・実務家への警鐘と行動指針

4.1 AIの信頼性改善と法的保証

AIモデルが自己の出力に対する不確実性(確信区間)を明示できるようになることや、出力根拠(チェーン・オブ・トゥルース等)を提示できる透明性モデルが求められる。また、法的保証(誤出力があれば補償する仕組み)を組み込む保険制度なども検討されるべきだ。

4.2 モデル設計者・ツール開発者の責任と説明責任

生成AIツールの提供者は、自社モデルの幻覚率、モデルが法律領域で誤誘導しやすい特性などを明示すべきである。法曹界では「このツールは法律出力を補助するもので、最終判断は人間が責任を持つべきである」という契約条項や免責条項の導入が増える可能性がある。

4.3 日本における制度設計の提案

日本の法曹制度では、まだ AI 利用に対する倫理ガイドラインや懲戒基準が明確でない。以下のような施策が考えられる:

  • 裁判所レベルで AI 使用開示ルールを段階導入
  • 日本弁護士連合会・日弁連による AI 利用ガイドライン整備
  • 法律学会や研究者と共同で、AI生成誤情報リスクを可視化する実証研究
  • AI生成補助ツールの認証制度(信頼性基準を満たすものを認証する制度)

4.4 読者・実務家への警鐘と行動指針

  • AI 出力を “そのまま使う” のではなく、必ず従来の判例・資料で裏付ける
  • AI を使うなら「検証用プロンプト」「出力比較」「クロスチェック体制」を設ける
  • AI ツール選定にあたっては、説明性・誤情報率の開示があるものを優先
  • 法律事務所・機関として、AI 利用ポリシー・研修制度を整備

まとめ・考察

AI の発展は、法曹界にも大きな恩恵と同時に深刻なリスクをもたらしている。とりわけ生成型AIの“幻覚(偽情報生成)”能力は、法廷提出書類に偽判例を混入させるという思いもよらないトラップになっている。Stanford の分析が示す通り、信頼性低下・倫理侵害・制度の崩壊をまねく可能性は軽視できない。
これを防ぐには、AI 出力への批判的視点と従来リサーチの堅牢な融合が不可欠だ。制度面では、AI 使用の開示義務や検証責任を法制度として明示することが急務である。
未来を見据えれば、AIと人間の法知能が補完し合う「責任ある共存」が鍵となる。本稿を読んだあなたは、AIが提示する主張を無条件に受け入れる前に「その根拠は何か?」と問い続けられる、法的思考力の守り手となってほしい。